南部家の歴代を大まかに紹介して参りましたが、城下盛岡が数百年にわたり繁栄してきたのは前回記載した神社のみ成らず、お寺の存在を忘れては成りません。
盛岡には盛岡五山(盛岡五ヶ寺)と言うものがあり其処に繋がる末寺も多く藩主の庇護のもと領民の心のよりどころとしてもその存在を忘れることが出来ません。
又、一時期においてキリシタン禁止令なども有りましたが北山聖寿寺に残る「マリア観音」のように形を変え一部の人々の信仰を支えていた様子もうかがえるのは特筆すべき事と思います。

「盛岡五山」
禅臨済宗  大光山 聖寿寺 派17ヶ寺   寺領500石
禅曹洞宗  鳩峰山 報恩寺 支配219ヶ寺  寺領200石
禅臨済宗  大寶山 東禅寺 派11ヶ寺   寺領200石
時宗    擁護山 教浄寺        寺領200石
禅臨済宗  大智院 法泉寺         寺領100石
(真言宗 盛岡山 永福寺  派23ヶ寺・支配6ヶ寺  寺領833石)
南部家菩提所 聖寿寺縁起
   古伝に曰く、三戸聖寿寺開祖は三光国斎國師也。
国師の号は禅家に限り、禅僧最上の極官にして天子の法の師たるを以て 人皇95代後醍醐天皇より初めて国師の号を賜る。
三光國師正平16年辛丑年五月二十四日入滅、以後信直公の御代に宗門寺住中絶し中興の僧無く、奥州松島瑞巌寺実堂和尚の弟子にして名僧の石門和尚を以て開山。三光庵(三戸・三光寺)と言うことは三光國師開祖の号なり 
また、海辺家(宇部氏)系図によれば平重盛公の御隠子上総太郎(海辺右馬頭平助盛)・讃岐次郎両兄弟が大宋國五大山の一つ育王山(アショカサン)霊隠寺より三光國師(珊光國師)を伴い帰国したものの
途中海上難風にあいさらに源平の戦いに平氏が敗れたため、現在の野田長根浜(御唐倉)に上陸し無量山小松寺(海蔵院)を建立と記録されています。


盛岡の町造りに際しその中心となる盛岡城はその天守櫓より真北方向に菩提所の聖寿寺を配し、鬼門の方角には天台宗愛宕山太郎防(興福寺)・真言宗盛岡山永福寺を山岸の地に配しました。
城下整備の重要条件は社寺を招致し移設することであり、寺院は武士階級のみ成らず庶民の教化に影響力を持ち、城下繁栄は寺院移転の正否にかかっていたといえました。
盛岡城下には76ヶ寺が置かれ、真言、浄土、禅宗特に曹洞宗が非常に多くこの傾向は南部領内全般においても圧倒的であります。 藩主南部氏の菩提所は三戸より北山に移転した京都妙心寺末寺大光山聖寿寺で文禄2年(1593)有名な松島瑞巌寺の石門和尚(後の関山禅師)を招聘して開山とした由緒を持つ寺であります。
他に藩主の墓所は聖寿寺の東となりに隣接した同系の大宝山東禅寺(遠野附馬牛所在・開山無尽和尚)にもあります。鳩峰山報恩寺は領内曹洞宗198ヶ寺の総禄として知られています。
特筆すべきは、浄土宗二派、本誓寺(東門徒)願教寺(西門徒)の二寺は多くの塔頭を要していて近江商人系は勿論の事、多数の城下商人諸職人等の幅広く根強い信仰を集めていました。
特に本誓寺は親鸞上人二十四輩の一人である和賀の堤信坊開創の寺院であり日本の真宗ゆかりの聖地・諸国霊場の一つとしての巡拝地であり参拝者が絶えなかったそうです。
城下の院坊の中には、祈祷などの行事を行う修験道「山伏」が居り羽黒修験などの山伏は村の隅々の至る所で加持。祈祷と生活に密着して強い影響力を持っていたそうです。



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